季節の呼び方,文明開化と経済と...
言葉は文化
日本語は本来、漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字といろいろな
文字で表す事が出来る、というか表す事が普通の言語文化である、はずでした。
しかし、明治クーデター政府が誕生して以来
戦争で国民は名誉の戦死と言う名で殺されたり
カレンダーを変えるなど
在来のヤマト文化をあちこちいじりすぎた。
「散切りアタマを叩いてみれば文明開化の音がする」などと
まるで江戸時代までは日本には文明がなかったかのようにまで
詠われていた時代があったそうです。
西洋の暦ををそっくり取り入れて
今迄在った暦を旧暦とした。
おかげでひと月もの季節にずれがおきてしまいました。
旧暦が良かったというつもりはありません。
しかし在来の文化を否定できないのに無理に変えようとして
いじりすぎたのではないかと思われます。
月名のひと月位のずれはいいとしても
季節の歳時の日付を西洋暦に無理に当てはめた事で
日本人が明治100数十年の間で正しい季節感を
失ってしまった原因の一つでもある、と指摘されています。
そのような事もあって、季節の呼び方は
下記のように多彩で微妙な呼び分け方が出来なくなってしまいました。
「春夏秋冬」くらいの呼び分けは大概の人はできるはずです。
季節
< 季節.気候の呼び方 一覧>
春・
●初春・旧暦1月(2月4日頃~3月5日頃)
●仲春・旧暦2月(3月6日頃~4月4日頃)
●晩春・旧暦3月(4月5日頃~5月5日頃)
●夏
●初夏・旧暦4月(5月6日頃~6月5日頃)
●仲夏・旧暦5月(6月6日頃~7月6日頃)
●晩夏・旧暦6月(7月7日頃~8月7日頃)
●秋
●初秋・旧暦7月(8月8日頃~9月7日頃)
●仲秋・旧暦8月(9月8日頃~10月7日頃)
晩
●秋・旧暦9月(10月8日頃~11月6日頃)
●冬
●初冬・旧暦10月(11月7日頃~12月6日頃)
仲
●冬・旧暦11月(12月7日頃~1月4日頃)
●晩冬・旧暦12月(1月5日頃~2月3日頃)
春から夏、夏から秋、秋から冬へと移って行く時
その間にも季節の呼び分けがある事を知らない人は少なくないのではないでしょうか?
上記の一覧を見ると分かると思いますが
それぞれの季節の間を「初」「仲」「晩」と分けた
微妙な季節感が、少なくとも暦の上では在るのです。
こうした事が日本の文化にはあるのです。
「Spring」は知っていても「March」は知らないでしょう・・・と
指摘する人がいます。
英語を公用語にしようとまで言い切る政治家が居るほどです。
英語が国際共通語的になったことでの英語の教育自体は「時代」だから、よしと
しましょうか。
しかし、公用語にする必要がどこにあるのでしょうか?
日本文化をろくに教えもしないで公用語としての「英語」をマスターしろ、という
論理がどこから出てくるのでしょうか?
私は国粋主義者ではありません。
でも日本語にちゃんとした月名が在るのにそれを教えないで
アメリカの月名を正しく覚えろというような論理が理解できないのです。
先ほど書いた「March」は「3月」でした。
それは明治クーデター政府以降に産まれたカレンダーの表示感覚なのです。
日本の三月は「弥生」なのです。
アメリカ自体が「March」と正しい月名で呼んでいるのに日本語の正しい月名は数詞の3月でいい、と言うのはいかがなもので、しょうか?
上の写真は日本の月、スーパームーンです。
地球の裏側でも同じに見えたでしょうか?、、、。
言葉は文化そのものだと言われています。
フランスの国は自国の言語文化を大事にしながら民族の移動(移民)には鷹揚だそうです。
社会経済
自由の国アメリカについていく日本が日本の言語文化を大事にしない傾向があるのは
何故なのでしょうか?
70数年前に「鬼畜米英」と叫んでいた人たちやその子孫が
日本国が「米」「英」に尻尾を振って忠誠の限りを尽くしているサマは悲しい限りです。アメリカの「ポチ」と呼ばれても日本国人としての誇りは無いのでしょか?
アメリカの「ポチ」と皮肉られていても反論する政治家の言葉を
聞いた事がありません。
経済の為なのだそうです。お金儲けのためなのだそうです。
あの3.11「福島」の事故から数年経って、懲りた想いになったはずのニッポンで
「原発再稼働」が堂々と叫ばれるようになっています。
「原発」は安全ではない、という事実の証拠が現実があるのにです。
安全では無い「福島」で現場の人達は必死の作業でその後の事故処理に苦労しています。
世界一厳しいとやらの「安全基準」を作り直した人たちが
「再稼働」のお墨付きを与えてしまいました。
経済の為には「安全」ではなくても「再稼働」を唱える人がいて、
その考え方を支持する人がいます。
「原発」は「原爆」と同じ原理なのです。
あの「福島原発事故」は想定外のために「亡国」の事態をも起こしかねない重大な危険をはらんでいる事を現実で教えてくれました。
お隣の国の「核ミサイル」はいけないけれど「核原発」は「平和利用」なのだから
安全でなくてもいい、ということのようです。
「亡国」「非国民」を唱えていた人たちがそうした事に沈黙しているのが悲しいと思います。